Someone's Garden
Creators

“ススを拭き取って”絵を描くスタイルを思いついたのは3年以上前のことだ。行政がこのトンネルを建設したばかりの頃は鮮やかな黄色だったんだけど、日を追うごとに汚れていき、すぐにススだらけになっちまった。ガッカリしたよ。それで俺はこいつをアートにしてやろうって思ったんだ

text by Shin Yamauchi


 
トンネルのススを拭き取ってドクロを描くというアイデアはよかったんだが、どうやってやればいいのか分からなかった。ある朝早くにトンネルに出向き、このアイデアが上手くいくかどうか試してみたんだ。描き方は分かったんだが、えらく時間がかかった。それからは13日間、毎晩そこに通ったよ。毎回6時間は描いたかな。長さにして300メートル、3500個以上のドクロが出来上がった。続けたかったが、最後は行政の奴らが全て洗い流しやがった。
この作品において、俺は汚染を使って考古学的な場所を出現させたかった。近い未来に起こり得るカタコンベ(地下墓地)という情景を現在にさらけ出したかったんだ。今、まさに起きている汚染の惨状を人々に示すためにね。ドクロは俺たちみんなの姿なんだ。
トンネルのドクロは消されちまったが、俺は都市空間を表現の場として使い続けるよ。行政は俺を止めることなんてできない。俺がやっているのは“掃除”だからさ。“掃除”することに罪も何もないだろ?罪なのは環境に対する汚染だよ。それは人々の生活に対しての罪でもあるんだ。だけど、行政はそうした問題をすぐに消し去ろうとする。彼らが俺の作品を全て洗い流したことによって、それが持つメッセージ、つまり環境汚染に対する問題提起も同時に消し去られてしまった。行政の意図は結局、問題に対する介入を排除することなんだ。奴らは、ドクロが描かれた“クリーンな”部分だけを洗浄して、残りのススだらけの壁はほったらかしさ。俺のメッセージは台無しになってしまった。つまり、“検閲”というもう1つの汚い罪を犯しやがったんだ。
だが、俺は更なる挑発とともに戻ってきたよ。そこに“素材”がまだあったからね。描きまくったよ。そうしたら行政の奴ら、今度はトンネルの全ての壁を洗いやがった。それからはサンパウロの全てのトンネルがきれいになってしまったけどね。


アレキサンドラ・オリオンはブラジル出身のグラフィティ・アーティスト/写真家。ストリートを歩く人々との組合せで成り立つ騙し絵のようなユニークな作品で知られる。この“Ossario—アート・レス・ポリューション”は2007年のプロジェクト。



[caption id="attachment_799" align="alignnone" width="450" caption="Orion 1"]Orion 1[/caption] [caption id="attachment_800" align="alignnone" width="350" caption="Orion 2"]Orion 2[/caption]



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Films

芸術というのは、神と対峙して何かを生み出す行為を言うのであれば、今のボクの生活は紛れもなく芸術活動だ。そう考えると、神と対峙して生きる人間を、人間が神と対峙している瞬間を、神と対峙しながら活写しさえすれば、そこに芸術作品は産み落とされるはずだ。


text by Shin Yamauchi   translation by Tomoko Ashikawa


最近よく、ダイナミズムってことを考えます。家族とか身の回りの大人とか、生活の中で自然と触れることができたはずのダイナミズム(ある大きさ)が希薄になってしまったからなのか、人はたいして大きくもないものにさえ簡単に巻かれてしまうようになってしまったんじゃないでしょうか。
本質ではなく比較でしか物事を測っていないような...。別にそれが悪いとか良いとかっていうことではなく、ただボクは、贅沢がしたいだけなんです。贅沢をしようじゃありませんか、と。
そう。
ボクはボクのダイナミズムへと帰るんだ...。
しかし、仕事ができないってのは落ち込みます。今の職場で、ボクはホントお客さん状態で、実はかなり凹んでるんです。だから、折角粋がって芸術活動だなんて思ってみたところで、アッと言う間にそんなこと思ってる自分がバカらしくなってしまいます。
だいたい神って言葉だって、わざわざ神なんてこと持ち出す必要はないし、神なんてあらゆるものに置き換え可能だし。
贅沢って言ったって、別にお金を使いたいわけじゃなくて、好きな人と一緒にいたり、自由に時間を使いたいってことなんです。
たくさんのモードの中に身を置けたらなって...。どこかに止まり木はないんでしょうか。誰かに寄り掛かれたりできないもんでしょうか。でもボクは、あまりに多くのものを踏みつけてきてしまいました。
すっとぼけて生きてきてしまいました。
風景がチクチクと胸に刺さります。 


センチメンタル。

大きなところで生きたい。
とっても広いところに行きたい。
あのとき感じた、空の青ぐらいの...


[caption id="attachment_593" align="alignnone" width="221" caption="from film"]from film[/caption]


女池充は1969年神奈川県生まれ。大学在学中にピンク映画の助監督としてキャリアをスタート。1996年に 『監禁』で監督デビュー。2006年の『花井さちこの華麗な生涯』は、世界各国の映画祭で賞賛を浴びる。2007年、第2回ガンダーラ映画祭で上映した衝撃の自己ドキュメンタリー『わが身を鴻毛の軽きに比すれども寝てばかり...』を機にいったん映画制作から離れている。


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Films


私の職業の正式名称は、スペシャルエフェクトの中のガンエフェクトです。ガンエフェクトというのは銃の発砲と、弾着。あとは地面や壁に当たった、血糊だとか。昔、これは美術のパートだったんですよ。美術の中の小道具で、映画全盛期の頃は持ち道具の人がやってたんです。


text by Asako Tsurusaki  translation by Naoko Higashi   photo by Lorenzo Barassi



※11/12(水)に起こった爆発事故に関する、記事・写真の無断転載は固くお断り致します。ご質問の際はinfo@someonesgarden.comまでご連絡ください。※SOMEONE'S GARDENは、ビル横山さん(通称ブロンコさん)をプロフェッショナルなガン・エフェクターとしてまた良き友人として尊敬しています。ブロンコさんの一日も早いお体のご回復を、心よりお祈り申し上げます。



僕は最初役者になりたくて、小さな劇団に入ってました。でもそれじゃ食えないからアクションもやってて、それで銃やガンアクションに興味を持つ様になりました。当時ウエスタンブームだったんで、海外から「ワイルドウエストショー」というのが日本に結構入ってきていました。その中の一つが銃を扱える小道具係を探していたんですよ。それでやってみたいと思う様になって、アメリカにまでおしかけちゃって、衝撃を受けてガンエフェクトというものにのめりこんでいきましたね。
工事現場のダイナマイトとか免許を持ってれば、基本的に銃関係の火薬は使えます。狩猟やクレー射撃をやってる人が持ってるような銃器取り扱いの許可と、その銃に使う火薬の資格って違うんですよ。火薬は花火の免許の分野に入ります。でも日本の警察はライフルとショットガンの許可を出したがりません。税金も高い。一年で何発以上撃たなきゃダメだとか、弾をこめてなくて押し入れにしまいっぱなしだとかチェックされるんです。そういうのを「眠り銃」っていって、没収されちゃいます。許可取る時とかもすごく調べられますよ。前科がないかとか、酒癖が悪いとか、いわゆる近所の普通の風評を身辺整理されます。だから僕は実銃の方は持ってません。
数年前に漫画家でガンマニアの花輪和一さんが銃を「改造」して捕まりましたね。我々もクラシックの銃を壊れやすいから補強したり、映画撮影用として火が出る様にします。映画の撮影くらいはいいんじゃないか、みたいなザル法的な雰囲気もあるんですけど、今は非常にそういうことにうるさくなってきています。映画で使うための改造と違法になる改造の違いは、例えば銃口線が一本入ってるインサートっていう棒。これで弾が出ない様に食い止めるんですけど、悪い人はこれを取って弾が出るようにしちゃう。これが「改造」なんですね。映画で真っ正面の寄りのアップから撮るとその棒が目立っちゃうので昔はこれを取ったりもしてたんですけど、いまそれをやると捕まっちゃう。まあそうは言っても銃口を閉塞ではなくて一本で止めてるだけだから、弾は出ないけど火は出ます。その弾に、映画的な仕掛けをするんです。
銃が本物らしく見えるコツは、撃つ時に噴く火だけじゃなくて、その反動が来た時の体の動き。クリント・イーストウッドの『ダーティーハリー』(1971)が流行った時は、わざとらしいほどみんな反動の動きしてましたからね。あと血糊も大事ですね。原理としては洋服に火薬と血糊を仕込むんですけど、それにコードがついてて、我々がスイッチを押す仕組みです。あと、飛んだりはねたり、またひいたショットでの血糊のシーンは、自分で手押しのスイッチを持ってて押すんですよ。まず普通の人は99.9%気付かない。でもこの話を一度聞くと、ちょっと気をつけるとわかる様になります。『ラストサムライ』(2003)の馬の上のシーンで、よく見ると手がそういう形になってますよ。肌からの流血の場合は、特殊メイクを使います。お腹なんかは比較的細工しやすいです。一時期、額を弾が貫通ってのが流行った時期がありましたね。額に小さな火薬と小さな血糊袋を仕込んで特殊メイクをするわけですけど、これをどんなに小さくしてもフランケンシュタインみたいになっちゃう。だから一瞬しか使えないんですよ。すぐ違うカットにつなげられる。そうすると時間と手間がかかるし、最近はメイクで弾痕を描いちゃいます。ボンって当たって後ろから出るのが最近多いですね。僕も『スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ』(2007)でおでこを撃たれましたよ。
いま流行りの銃は...、ちょっと前まではベレッタの92F。最近はグロックとかかな。蘊蓄になっちゃいますけど、『ダイ・ハード』(1998)の時飛行場の機内預けの中でに敵キャラが使ってて、ブルース・ウィリスが「こんな銃使ってるのはその辺のチンピラじゃない」て言うシーンがあるんです。高い銃なんですよ。なんで高いかっていうと、飛行機に乗ってもばれないようにプラスチックなんですよね。グロック。これは比較的人気がありますね。



[caption id="attachment_586" align="alignnone" width="424" caption="写真:RPG7。実際にイラク戦争で使用したもの。"]写真:RPG7。実際にイラク戦争で使用したもの。[/caption]



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Stories

2004年の寒い冬の間、私はストックホルムにあるアーティスト・イン・レジデンスで時間を過ごしていた。毎年その時期になると、ストックホルムは闇で覆われる時間が長くなる。朝10時には明るくなるが、午後2時にはまた暗闇が訪れるのである。この特殊な環境は私の体内時計を大きく狂わせて始めていることに気がついた時にはもう遅かった。私の生活や経験たちは強烈に影響され始めていた。


text by Daisuke Nishimura

その時、私の頭の中にひとつのアイデアが生まれた。「もしも街中の空に、足に発光ダイオードをつけた鳩が何千羽も飛び交ったら、街はどんなに明るくなるだろう」と。 道を歩く人たちは、空中に沢山の光が飛び跳ね、踊っている光景を目にするだろう。発光ダイオードはとても小さいものなので、鳩を悩ませることはないし、家へとまっすぐに飛び去る道中で、光源は簡単に外れることだろう。
私がどうして鳩に興味をもったかというと、それは航空写真や航空映像を見たことから始まっている。過去2回の世界大戦において、鳩は常にスパイ活動の目的で用いられてきた。単にエアメールを送信するだけの伝書鳩ではなく、小型のカメラをカラダに取り付けられた鳩は、空から航空写真を撮影する為に役に立ったのである。戦時中、鳩をスパイ目的で用いられることを怖れたドイツはその使用を禁止し、それを守らなかったものたちは厳しく罰せられたという。
とても残念な話であるが、結局私はこのプロジェクトを実行することは出来なかった。というのも、もともと鳩は太陽の位置を目印に住処へと飛び交えっていたことが分かったので、夜の闇の中で正しい道を見つけることが難しかったのである。また、最近の研究によると、鳩はどうやら太陽以外にも二つの道具を用いて自分の居場所と帰るべき家路の方向を認識しているという。それは、「磁気」と「匂い」である。
ただ、磁気と匂いを用いていると分かったとしても、実際にはどうやっているのか、その仕組みについてはほとんど分かっていない。一つだけハッキリ言えることは、それほどシンプルなシステムではないということであり、「闇夜を見失うこと無く飛行する鳩」を調教することは決して簡単ではない。ただ、それは不可能ではないのだ。
夜間飛行鳩を調教するやり方の一つは、日が暮れる前に家へと帰ろうとしている鳩を追い回し、また夜の空へと戻すことである。そうやって訓練された鳩が夜空を無事に飛行出来る条件が一つだけある。それは、「正しい体内時計が完全にリセットされる」ことである。まるで、ストックホルムの長い闇に取り残された、私のように。


[caption id="attachment_828" align="alignnone" width="261" caption="This picture, Pigeons Don't Fly At Night. #2, is part of my ongoing research to train pigeons to fly at night."]This picture, Pigeons Don't Fly At Night. #2, is part of my ongoing research to train pigeons to fly at night.[/caption]



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Fashion

私たちはフロスティ (グスタフ・カールソン・フロスト) とアン=リー・カールソン。スウェーデンのストックホルムでそれぞれフォトグラファーとイラストレーターとして活動しています。私たちにとってファッションとは、すばらしい心と自信がミックスされた強い感覚。

text by Someone's Garden



私たちのプロジェクト「Retouche」ですが、1940年代のヨーロッパの女性は素脚の後ろに黒い線を描いて、当時人気だったが戦後のために入手不可能だったシルクストッキングをはいているかのように見せていた。これが洋服を作るのには何が必要か?を探求する私たちのプロジェクトの原点です。ファッション写真とイラストレーションは洋服を実際より大きな幻想を生み出します。ボディペイントと写真を使って、私たちは洋服が物理的に具体的な何かになったり、同時にすばらしい幻想になったりもするということを表現したい。デンマークの代表的な作家、ハンス・クリスチャン・アンデルセンの童話のように、王様に新しい洋服をあげたいのです。
個人的な話をすると、僕 (フロスティ)が写真の世界に入ったのは、生まれ育ったエーランド島があまりにも退屈過ぎて、グロッシーな雑誌を通して大都市に行くためだったんだ。そうやって自分の好きなイメージを撮り始めたわけ。私 (アン=リー)は子供の頃から絵描きのオタクだったから、イラストレーターになる以外、ほかに特に選択枠がなかったの。これからはもっと日本で仕事がしたい!


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Films

ポルトガル、リスボン生まれの映画監督ペドロ・コスタがこだわり続ける、カボ・ヴェルデ島の住人たちと家族の意味とは。

text by Asako Tsurusaki translation by Tomoko Ashikawa photos by Hiroaki Hoshi 

1994年、『溶岩の家』の撮影で、アフリカのカボ・ヴェルデ島に行きました。その最中に自分が描きたいことはシナリオに書いてあることではなく、むしろ別のことである、と思うようになりました。それはもっとドキュメンタリー的なもので、マテリアル的にもミニマルな製作形態です。『溶岩の家』を撮っていた頃の私は、映画という趣向にとても支配されていました。現在私が非常に注意していることは、映画史の伝統、あるいは映画的な趣向、そういったものよりもむしろ人々との出会いや、彼らと何かを作り出すという行為そのものが重要だと考えています。以前は大文字の「映画」というものに守られていたとすれば、現在の私は裸です。そこには自分や出演者たち、街路しかありません。
『溶岩の家』の撮影によって、カボ・ヴェルデ島の住人たちとの関係は少しずつ築きあがっていきました。そしてリスボンに帰る際、彼らは自分たちが書いた手紙、あるいはタバコやお菓子だとかそういったプレゼントを、カボ・ヴェルデ島からリスボンに移住している家族やあるいは友人に渡してくれるように、私に託してくれたんです。そのことによって私はリスボンに大きな鞄をぶらさげて帰って、それをみんなに配って歩き回らなくてはいけなくなりました。サンタクロースや郵便配達人みたいな役割です。それでその時、後に私が映画を撮るために留まることになるフォンタイーニャス地区に、初めて足を踏み入れることになったんです。この「プレゼントを持っていた」ということと、私がクレオール語を少し話せるということによって、彼らに受け入れられるスピードは他の人よりも早かったのかもしれません。
このプレゼントを配って回ったということをきっかけに、私は彼らに次々と食事に招かれることになりました。こうやって彼らと多くの時間を過ごすようになり、徐々に一緒に映画を作りたい、という欲求が芽生えてきたんです。そうやって作ったのが1997年の『骨』です。そして『骨』の撮影の最中に、出演していたヴァンダ・ドゥアルテがもう少しここに残って撮影をしてみたら、と提案をしてくれ、『ヴァンダの部屋』(2000)が生まれました。これはとても自然な流れでした。メッセージやプレゼントを私が配り歩き、代わりに彼らは自分たちの世界について語ってくれたのです。彼らが語ってくれた世界と自分の関係、あるいはそれを与えてくれたということは自分にとって非常に重要なチャンスでした。それこそが私の映画の源泉になっていったのです。ヴァンダや『コロッサル・ユース』(2006)に出演しているヴェントゥーラ、また他の多くの人たちが私に対して与えてくれたものを、もし仮に映画として実現しなかったとすると、それは裏切りになってしまうと思います。彼らに対してだけでなく私の敬愛する小津安二郎、あるいは映画そのもの、自分自身をも裏切ることになってしまう。そうしたことでいま私は映画を完成させようと思うようになっています。私には自分にとって仕事のなかで基礎となるようなものがあって、それが自分の関心に大きく関わっています。それは今のところフォンタイーニャス地区の様な共同体だという風に思っています。今の時点、私はそこから離れてどこかに行こうとは考えていません。それはまだ早いと思っています。


[caption id="attachment_831" align="alignnone" width="300" caption="en-avant-jeunesse"]en-avant-jeunesse[/caption]




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Films

要するにゴダールの登場ってのが、映画の衰退なんだよね。1957年が世界的な映画のピーク期だとすると、1959年で登場したJ=L・ゴダールの『勝手にしやがれ』とかそういうアヴァンギャルドなものが出てきて、その時代をぶっ壊して出てきたってことはそういうものでしょ。僕がドイツに行ったのはちょうどその頃、東京オリンピックの年だったから1964年かな。


translation by Tomoko Ashikawa text by Asako Tsurusaki  photo by DaisukeNishimura


まだドイツ映画が全然注目されてなかった時代。当時ドイツの学校に在籍しながら看護士の下働きや、死体処理とかしてました。大江健三郎の世界だね。ミニシアターというか自主上映の活動を日本で始めたのは1976年。最初ドイツで「欧日協会」っていう、現地の日本人に向けた旅行代理店みたいなものをやってました。それでお客を集めるために、日本人がいるところにフィルムを持っていって『寅さん』シリーズの上映とかもしてて。当時ドイツ、パリ、ロンドンにもあったんですけど、東京にはなかったんで自分で戻ってきて作りました。それで、まあ簡単に言えばその会社を売ったお金でユーロスペースを作ったんだよね。

欧日協会ではじめて扱った映画はヴィム・ヴェンダースの『さすらい』(1976)。ヴェンダースはまだその頃30歳くらいで、ドイツでは全然知られてなかった。ユーロスペースという形を持ち始めたのは1982年。でも出来てすぐ4〜5日くらいで渋谷警察に挙げられて、営業停止になったんです。映画の興行組合に入ってなかったってことで訴えられちゃって。それからは下のところに見張りをつけて上映して、警察が来たらばたばたって閉めるってのを10ヶ月くらい続けてました。
アメリカ映画で70年代に「怒れる若者」ってあったんだけど、あれからパタっとNY派の映画って日本に入って来なくなっちゃった。それでマーティン・スコセッシやウディ・アレンとか巨匠はいるにしてもインディーズの若者は何してるんだろうって思ってた。当時アンディ・ウォーホールみたいな美術から来た映像と、ジャック・スミスとかのサブカル的な映像とが出会ってるのがNYだったから、いわゆる映画の文脈でそういうアメリカのムーブメントに引き続く文化はないんだろうかって思って、「NY映画祭」を日本で企画して、探しに行ったんですよ。その時まだNYUの学生だったジム・ジャームッシュとかスパイク・リー、サラ・ドライヴァー達を知りました。NYにいると、スパイクとか学生たちがホテルに自分の作品を持って来るんです。その時スパイクが持ってきたのは『Joe's Bed-Stuy Barbershop』っていう卒業制作。100%黒人しか出てこない映画だったんだけど、自分は黒人社会で黒人の映画を作るんだっていう意識を彼はその頃から持ってたんだよね。それで「俺は間違いなく10年後に映画界のマルコムXになるんだから、お前は俺の作品を買っておいた方がいい」っていうんだよ。まあ実際にそうなったんだけど。その時ジムの卒業制作『パーマネントバケーション』(1980)も買ってたんだけど、そしたら映画祭までの間に彼の『ストレンジャー・ザン・パラダイス』(1984)の方が先に有名になっちゃって。ジムはスターになるしで大騒ぎでしたよ。
ジムはいつも作品をスイスのクリスタ・サルディっていうセールス・カンパニーの女性に任せてました。アキ・カウリスマキなんかもそうで、そのせいかジムとアキはすごく親しい。1996年のカンヌ映画祭でアキの『浮き雲』がコンペティションに出品されてたんですけど、僕は誰かが買うだろうと思って観ずに帰ろうと思ってたんです。それまで彼と仕事はしたことなかったから。そしたら最終日の朝に、クリスタから誰も買うところがなくなっちゃったって泣きの電話がかかってきて。賞を穫っちゃったんで値段があがったのかな、最後になってみんな手をひいちゃったみたいで。でも僕も「いや、観てもいないし」って言ったんだけど、アキもケンゾーが買ってくれるんなら値段は任せるっていうんで、結局観ないで買ったんだよね。でも結果的にカウリスマキの映画では過去2番目くらいの観客動員数になりました。それからです、アキがうちじゃないと売らなくなったのは。「10%カントリー」という言葉があるんですけど、例えば10億円の予算の映画に対して、1億円の出資額が出せる国。これはフランス、ドイツ、イタリア、日本だけなんですよ。日本人が気付いてないのは、自分たちがヨーロッパの映画を買うってことの重み。日本のマーケットって彼らヨーロッパの作家たちにとってすごく重要なんです。アメリカに次いで世界に2番目に大きいからね。
その後美学校とか学校を始めたのは、そろそろ映画に何の恩返しが出来るかって思ったから。いま全国に50館くらいのシネコンに対抗する全国チェーンを作ろうと思ってて。この目的は2つあって、1つは教育というよりは客を作るという発想。例えば客が来ないのを愚痴るんじゃなくて、小学生から映像教育をすれば10年後には立派なお客さんになってるから。良さがわかる観客がいないと良い映画も出来ないんだよね。もう1つはシネコンのせいでなくなってきている地方の映画館を何とかしようという考え。いま僕たちはこのために色んな調査をしていて、医学で言えば臨床例がいっぱい出てる段階。その後はそれを医学的に解釈する人たちが必要なんで、それは大学の博士課程で教育してます。入れ物とかをちゃんと作っておけば、だんだん研究が日本に定着してくるし。とりあえずそれが終わったら、隠居かな。

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Stories

雑誌『アドバスターズ』の発刊者として、またアドバスターズ・メディア・ファンデーションの創設者として、カル・ラースンは最前線に立ち今日もメディアの嘘を暴き続ける。


text by Daisuke Nishimura   photo by Jim Labounty
  

雑誌『アドバスターズ』は、他の左寄りの雑誌と同じように、社会に対する怒りを持つ仲間達で自然と始まったんだ。それから少しづつ良いアーティストやライター、フォトグラファーが参加してくれるようになっていた。最初は身近なところにいる賛同者に配っていたけれど、今は街角のキオスクに普通に置かれているから、法律家からサラリーマンから広告会社のお偉いさんまで幅広い人たちに読まれている。
こうやって少しづつ、いろんな人達の頭の中を変えてこれたのだと思っているし、少しづつ新しい革命が泡立って来ているのを感じている。 僕は日本にずっと住んでいたんだ。オフィスが東京に在ったから、ずっと東京にいた。日本に5年ぐらい住んだ後、今度はカナダに移り住んで、それからまた日本についてのドキュメンタリー映像を作る為に戻って来たんだ。日本とカナダを行ったり来たりしながら3、4本の映画を作っていくうちに、いつの間にか日本についての壮大なドキュメンタリー映画シリーズが完成していた。それは1970年代だったから、ずっと昔の話だね。初めて日本に来たのは1965年で、東京オリンピックの次の年だった。今考えても、その時代日本以上に面白い国は世界中無かったと思うよ。オーストラリアのシドニーから船でヨーロッパに向かう途中、燃料補給地として四日市に停泊したのが一番最初の日本との出会いだった。数日停泊した後またヨーロッパへ向かう予定だったんだけど、とにかくその時の日本があまりにもエキサイティングで!ご飯もおいしかったし、出会う人間も最高だったし。とにかく船に戻るのが本当につらかったのを覚えている(笑)。

それから僕は、日本が全く異なる三つの時期を経験したのを目の当たりにしている。一番はじめは、1965年に日本にはじめて来た時に目撃した時期。人々は生きる目的をしっかり持ち、モチベーションを高く掲げ、「大和魂」について熱く語っていた。その光景は本当に印象深かったのを覚えている。それから二番目に経験した時代は、70年代から80年代にかけて映画製作の為に日本に滞在した時。以前よりも彼らの情熱は弱くなっていて、徐々に浸透し始めた消費者文化が「大和魂」を弱らせ始めているのを強く感じた。そして、最後に日本に訪れたのは今から2、3年前だったんだけど、もう十分すぎるほどアメリカナイズされ西洋化されてしまった日本人の姿が、そこにはあった。ほとんどの若者は、片足を日本文化に突っ込みながらも、もう片方の足はしっかりと新しい文化に突っ込んでいる。もうそこには「大和魂」のかけらも見つけられなかった。日本は戦争には負けたけど、それが「大和魂」を失う事になる直接的な原因だとは思わない。 むしろ、消費者文化を受け入れてしまったことに問題がある。確かにアメリカの消費者中心の文化は美しいし強力だから、一度そこに足を踏み入れてしまうと、なかなか抜け出すことは難しい。そういった「自己中心」的なカルチャーに若者は簡単に染まってしまうし、消費社会に仕組まれた「かっこ良くありたい」という欲望や、個人主義的な文化の中に丸め込まれていってしまう。今や日本人は、自分たちがどこにいるかも分かってないし、これからどこに向かうのかなんて、まったく想像出来ない。生きていることに、いったいどんな意味があるのだろうか?と。今この質問にはっきりと答えられる日本人はほとんどいないと思うよ。だけど1965年に同じ質問をしたら、誰もが答えられたと思う。

僕は1942年にエストニアのタリンという街で生まれた。エストニアはソビエト連邦のひとつだったから、15年前まではずっとその影響下から抜け出せなかった。日本は1945年には新しい道を歩き始めたけど、エストニアが違う道を歩き始めたのは1991年になってから。そして、僕が日本で目撃して来た変化と同じものを、まさに今のエストニアで目撃している。エストニアの若者も同じく「エストニア魂」をちゃんと大事にしているし、未来を見つめて正直に生きているんだけど、少しづつ、日本が落ちていった道筋と同じ結果になるのではないかという危険を感じている。日本がその魂を完全に失ったように...。
 

最近の50年〜100年は、全人類史の中でも最も狂っていて、馬鹿げた時代だったと思う。そして、こういう熱にうなされたような馬鹿げた時代では、社会全体がとても簡単にひっくり返されてしまう。まるで、宝くじに当たっていきなり大金を手に入れて、それからどうしたら良いのか分からなくなり、コントロールを失ってしまうような状態と良く似ている。今、環境問題もヒューマニティも、大きな危機を迎えている。異常気象や温暖化に立ち向かっていかないといけないし、一度壊された環境は、二度と元には戻らない。もうすでに、地球の上で人間はありとあらゆる事をし尽くしているし、鬱病などの精神疾患は、まるで疫病のように地球全体へと広まっている。それも指数関数的に。テロリストとの戦争も終わりが全く見えないし、このまま行けば、環境的にも政治的にも心理的にもかなり危険な新しい時代へとどんどん突き進んでいくことになる。どこの国でも、日本やアメリカのような豊かな国になれるわけではないんだ。こんな不安定でクレージーな時代の中で生きている日本人は、けっしてラッキーだとは思えない。だけど、もしも本当に世界を変えたいと強く思うのなら、自分たちが生きていきたいと思えるように日本も世界全体を変えることは可能だし、それをしていかなければ駄目なんだ。


[caption id="attachment_839" align="alignnone" width="253" caption="Cover of ADBUSTERS"]Cover of ADBUSTERS[/caption] [caption id="attachment_836" align="alignnone" width="262" caption="Cover of ADBUSTERS"]Cover of ADBUSTERS[/caption] [caption id="attachment_838" align="alignnone" width="279" caption="Page of ADBUSTERS"]Page of ADBUSTERS[/caption]


[caption id="attachment_837" align="alignnone" width="248" caption="Cover of ADBUSTERS"]Cover of ADBUSTERS[/caption]





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Fashion

私の名前はイェレナ・ヤムチャック。ウクライナのキエフ生まれで、11歳の時に両親とアメリカへ移住したの。ブルックリンのベイリッジで育てられて、高校で写真を始めたのよ。その後はNYのパーソンズとパサデナのアートセンターで美術と写真を勉強したわけ。絵を描き始めたのは6年前ね。

text by Someone's Garden     photos by Yelena Yemchuk

 ファッション写真の世界に入ったのは、スタイリストの友達が「DAZED & CONFUSED」での撮影を一緒にやろうと誘ってくれた時なの。7年前ね。その時は個人の作品と音楽系の写真に集中していたんだけど、その撮影が本当に楽しくて、それ以来ファッションを撮っているわ。ファッション写真には子供の頃から興味があって、小さい時にリチャード・アヴェドンやスティーブン・マイゼルの写真を雑誌から切り取って壁に貼っていたの。すごく刺激的で美しかったんで、恋に落ちたのよ。雑誌という一見一時的なものの中にアートを見つけられるという考えにも恋をしたわ。ファッション写真は私にとって、「可能性」ね。一回の撮影でひとつでもすばらしい写真が撮れたら幸せよ。

自分の仕事で一番好きなところは、すばらしい人たちと一緒に仕事ができることと、すばらしい場所へ旅行ができることね。あともちろん、すごく良い写真が撮れた時。一番辛いところは、ただ単にアートを作りたいだけなのに、ビジネスマンにならないといけないこと。
今のファッション業界はかなり保守的になってしまっているわ。90年代初頭に何かが起こって、ファッションは「ビックビジネス」なってしまったみたい。以前はみんな危険を冒していたし、そういうことも許されていたの。個性が重んじられていたのよ。でも今は全く違って、多くのファッション写真が似通ってしまっている。でも時々良い写真を見つけられるし、感動して圧倒される時もあるわ。
仕事をしていない時はボーイフレンドと娘と一緒に時間を過ごすの。彼の料理は上手いわよ。あと、今注目しているものは、以前からいつも注目しているものね。すばらしいアート、本、新旧の映画、脳に栄養を与えてくれるもの全部。心配事では戦争、汚染、増加している暴力ね。それと今は絵の展示会の準備と、ホームタウンのキエフで撮りためた写真をまとめた本を作っているわ。将来のプランは絵を描き続けて、写真も撮り続けたい。あとは・・・


[caption id="attachment_856" align="alignnone" width="214" caption="Photo by Yelena Yemchuk"]Photo by Yelena Yemchuk[/caption]


[caption id="attachment_606" align="alignnone" width="205" caption="Photo by Yelena Yemchuk"]Photo by Yelena Yemchuk[/caption] [caption id="attachment_857" align="alignnone" width="197" caption="Photo by Yelena Yemchuk"]Photo by Yelena Yemchuk[/caption] [caption id="attachment_858" align="alignnone" width="194" caption="Photo by Yelena Yemchuk"]Photo by Yelena Yemchuk[/caption]




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Magazine

where artists go? ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。 


text and photo   Tomoko Ashikawa

 
それはいつもアーティストだった。貧しいながらも自らの場所を求めて徘徊する彼らは、いつもその時の絶好の場所を見つけることが出来た。そして彼らが開拓した治安の悪く安価な土地は、常に資本主義に搾取されていったのだ。高層住宅ビルやファッションブティック、高級レストランなどが立ち所に建設され、あっという間に地価が高騰していったあと、彼らはまた新たな地を求め浮遊していく。しかし、はじまりはいつもアーティストだった。

俗に「アートの中心地」と呼ばれるニューヨークといっても、山手線の内側に収まるくらいのマンハッタン島だけではない。他にブロンクス区、ブルックリン区、クイーンズ区、スタテンアイランド区の4つの区が存在する。5つの区域に分けられたうちの1つであるマンハッタン区が、いわゆる「摩天楼」と呼ばれる夢の島。まだその夢の島にもアーティスト達の居場所があった頃、彼らはソーホーにいた、トライベッカにいた、ローアーイーストサイドにいた。しかしいずれも開発の手が彼らを追いかけ、街はあっという間に消費の海へと化していった。そうして浮遊していった後に彼らが流れついたのが、今まさに再開発の中心にあるブルックリン地区のウィリアムスバーグとグリーンポイントと呼ばれる地域だった。10数年前は汚い工場街だった場所に、マンハッタン島から川を渡ってやって来たアーティスト達は、工場跡のロフトをスタジオ兼住居に改造して住みはじめたのだ。そこにはエネルギーがあった。突起した鋭利なクリエイティビティがあった。毎日何が起こるかわからない、驚きと未知のアイディアに溢れていた。そう、だからいつもはじまりはアーティストなのだ。

2005年、ニューヨーク市は、ウィリアムスバーグとグリーンポイント地域の175ブロックを、工場地域から住宅地域へとゾーニング変更する法律を可決した。これによって、ディベロッパーは30〜40階建てのマンションを建設することが可能になった。この再開発計画はかなり大規模であり、また使用される技法もきわめて独特なため、市の注目が一気に集まった。多くのロフト住人やスタジオ保持者はすでに立ち退きを余儀なくされ、3歩歩けば建設現場にあたる程多くの"高級コンドミニアム"がものすごいスピードで造られているのだ。ディベロッパー達が呼ぶ"モダン・ウィリアムスバーグ"とは、一体どのような様相なのか。例えば、northsidepiers.com や  themodernwilliamsburg.comを訪れてみると、そこにはペカペカした金メッキのような3Dレンダリングのイメージが並んでいて、なんとも悪趣味な"モダン"なのである。この一見華やかに見せかけられた"お化けコンド"達の建設が気違いじみたスピードで施行されている裏には、住民に対する配慮の欠如と安全の問題点が持ち上がっている。ある建設現場では、早朝7時に巨大な鋼鉄物を運んで来たクレーン車が、そのまま現場に横倒しになる事故が起きた。また30階建てのビルを建設中の別の現場では、夜10時からビルの屋上に冷却塔を立てる大掛かりな作業を開始し、周辺住民は深夜3時まで膨大な数の投光照明に包まれて巨大なクレーン車を眺めることとなった。この異常なまでに興奮した建設ラッシュは、一体何事なのか。莫大な利益を約束し満を持してゾーニング変更法案を可決した、ブルームバーグ市長の焦りなのか。

実際はどうだろう。ペカペカの3Dレンダリングに出てくる登場人物は、いわゆる成金ヤングエグゼクティブ(またの名を俗にいうヒルズ族)の様ないでたちで、この再開発のターゲットがその層にしか絞られていないことに、そもそもの間違いがあると思わずにはいられない。本当に彼らは、川を渡ってこの工場地帯に莫大な投資をしにやってくるのだろうか。ブルックリンは、コミュニティの結束が特に固い地域だ。グリーンポイント地区にはポーランド系、イタリア系、ロシア系、ラテンアメリカ系など多岐にわたる人種が19世紀後半から移住しはじめ、ウィリアムスバーグ地区にはナチスの迫害を逃れて来たユダヤ系移民が多く住む。彼らは長きに渡り、様々な文化を溶け合わせながら同居して来た。そこに新しく加わったアーティストや学生層も、独自のアンダーグラウンドシーンを作り出しコミュニティに参加している。地域に密着した地元民と、草の根的な動きで爆発的なエネルギーを発信するアーティスト群に、再開発という名のお祭り騒ぎはどう融合するのだろうか。

ある意味見ものである。アーティスト達が開拓した地を、再開発の波が追っていくことは今にはじまったことではない。そうやって、ニューヨーク全体が繁栄して来たことも事実だ。再生と破壊、進歩と後退は常に紙一重。疾走していく再開発の波に乗り、そこにまた違った風景を見るもあり。また別の地へと浮遊していくのもあり。そうやって街は開拓され、破壊され、開発され、常に形を変えていく生き物なのだから。そしてそこを浮遊する私たちも、常に変化を求める生き物なのだから。

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Stories

ヒトはどこからきたのだろう。そんな問いかけを続けてきた「京都大学霊長類研究所」が、ついに今年で40周年を迎えるという。人類とは選ばれし種族なのか、それとも自然淘汰の波間を漂うだけなのか。どちらにせよ、霊長類研究所が残してきたこれまで足跡は、とてつもなく大きいのだ。

text  Daisuke Nishimura art  Theresa Bloise

イースター島の古代人から脳科学、遺伝学から最新サル学まで、「ヒトがなぜ誕生し知性はどこから生まれたのか」を追求している京都大学霊長類研究所が、今年で40周年の節目を迎える。この研究所が誕生した発端は、戦後すぐに行われた「幸島のニホンザル」研究である。つまり、サツマイモを海の水で洗って食べるサルが発見されたという、あの衝撃的な研究であった。もともとは野生の馬を調査していた京都大学のチームが、いつのまにかサルの研究に夢中になってしまったというのが本当の話らしいが、それでも決して簡単な道のりではなかった。戦後まもなく始まった研究であったため、戦時中に仲間を多く銃殺されていたサル達にとって、人間とは憎い敵以外のなにものでもない。なかなか警戒心を解いてくれなかった為に餌付けにも相当時間がかかったという。それでも忍耐強い努力の結果、十分に観察出来るほどになり、集団構造、順位制、血縁関係の役割、社会的役割の分化、そして「文化」の発見など、衝撃的な成果を世界に知らしめていった。その時の指導的な研究者は、今西錦司らを中心とした京都大学の霊長類学研究チームと、東大伝染病研究所の安東洪二らを中心に結成された実験動物研究会らである。立花隆も『サル学の現在』という書物を発表していることからも分かるように、この時代に萌芽したサル学という新領域は、目を見張るほどの成果をあげていたのである。なぜそこまで注目されるようになったのか。それについては語る必要さえないだろう。つまり、この世に生きる誰しもが、まるでゴーギャンの絵画の名前と同じように「自分たちがどこから来て、今どこにいて、どこに向かおうとしているのか」を知りたいと欲するのは当たり前のことだからだ。ヒトはサルとは全く違う種族だと信じて研究を進めていくが、それほど相違がないことにショックを受ける。この繰り返しが霊長類研究の歴史だったのだろう。例えば、「人間の祖先とチンパンジーの祖先は交雑していた」という研究結果を聞いた時、あなたはどう思うだろう。これは去年のネイチャーに発表された論文だが、人間の祖先は650〜740万年前ごろ、比較的短期間でチンパンジーの祖先と分かれ、現在の人間に続く道を進化していったというが、人間とチンパンジーの全遺伝情報(ゲノム)を比べると、何度も分岐した可能性があるという。つまり、「いったん分岐した人間とチンパンジーの祖先が、長期間にわたり再び交雑」していた可能性が高いというのだ。この研究結果が意味することは、ヒトとサルが全く違う生きものではなく、むしろ恋人関係ほどの距離感しかないということである。つまり、肉体的な意味では全く違いはないのだ。今の段階で確実に分かっていることは、アフリカの大地で人類が誕生したということぐらいだ。これは間違いない。「多地域平行進化説」という、アフリカだけでなく同時多発的に世界中で生まれたという説もあったのだが、それも今年7月にナショナルジオグラフィックニュースに発表された論文によって完全に否定されている。どうやらアフリカだけが人類の起源だということは間違いがなさそうだ。もちろん、アフリカが原点だと語るに足る理由は他にもある。「樹上生活起源説」という、身体メカニズムから考えた進化論もそのひとつである。つまり「祖先が樹上を平行移動しているうちに、いつの間にか直立二足歩行が出来るようになっていた」という説であり、このためにはアフリカの豊かな森林が必要となる。古い学説だと、いきなり二足歩行になったかのように語られてきたが、どうにもそこまで直接的ではないのかもしれないらしい。さらにヒトの二足歩行の場合「省エネ」度が一番高くて、酸素摂取量は平均でチンパンジーの4分の1程度だったという。つまり、エネルギー的にもずっと進化したロコモーションへと、アフリカの深い森の奥で進化していったと考えると納得がゆくだろう。これ以外にも「ネオテニー説」「アクア説」「テレンセファリゼーション(終脳化)」「23本の染色体」など、人類とサルを隔てている証拠となるような研究はいくつもあるが、ヒトの起源に迫るような重要な研究の中で、京都大学霊長類研究所の40年間で行われてきたものは、実に数多くあるのである。この研究所が日本だけでなく世界中の霊長類研究に残してきた足跡は図りしれないのである。

インターネットの氾濫やモラルの欠如などでヒトという概念そのものがアイデンティティ・クライシスに陥っている現代において、「ヒトという存在がどこから生まれたのか」について考えることは、単なる学問領域を超え、豊かに生きてゆく為に必要なことだろう。例えば、全く新しい人類の定義として「ホモ・ナランス」というものがある。これは、人類とは「物語るサル」であるという意味であるが、なるほど、確かにそうかもしれない。この先にどんな未来が待っているのか、想像力がなければ怖くて進めないだろう。 果てしない先へと続いてゆく人工的なハイウェイを、ものすごい高速で疾走してゆく人類にとって、「物語を想像する力」こそ最後の望みなのかもしれない。良くも悪くも人類には物語を生み出してゆく力はある。この機会に、それぞれが生きている物語を、「希望に満ちた物語」へと膨らませてみることは、とても大切なことなのかもしれない。


[caption id="attachment_865" align="alignnone" width="421" caption="Future of Calling"]Future of Calling[/caption]



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Music
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Magazine

90年代、オタクは見たことも無いようなアイテムでいっぱいになった部屋に引きこもり、まるで明日が来ないかのごとくインターネット上で情報を消費し、生活していた。彼らはほとんど部屋を離れず、現実はオタクの人生に何かを介する形でのみやってきた。例えば、本物の樹木ではなく、樹木の写真。本当のセックスやバイオレンスではなく、ポルノや漫画の中の暴力を通してである。そして中には、オタクたちに対し、現実世界へ立ち向かっていくためのスキルを与えられないことに罪を感じる者さえいた。

art Harrison Haynes   author Arne Hendriks  translation Toshiyuki Hayashi


 
しかし、失われた世代が社会から忘れられた存在になっていくのを心配する者がいる一方、その社会から忘れられた者たちはもう一つの未来を企んでいた。津波が来る前の海のように、オタクは地平線を越えて後退し、意識的に、もしくは無意識的に、次に来る大きな波のための勢いを築いていた。そして、この想像もできない次なるアバンギャルドな波こそが、コスプレイヤーたちなのである。

シンプルに見えるが、現実を強く否定する手段として、オタクは漫画、アニメ、ゲームのキャラクターをベースにしたコスチュームを作っては、公共の場で着飾るようになっていた。更に、コスプレに従事するためには、コスプレに関する全てのことに対して極端な熱狂精神を持ち、彼らのコスプレという幻想を殺してしまうようなことを厳格に否定しなければならいという暗黙のルールがある。もしコスプレという代わりの現実の一部でいなければ、自分の存在も無視されてしまう。この大半の人には足を踏み込めない領域では、コスプレイヤーたちはグループである限り、極端な現実の単純化と言語と行動の儀式化によって自分たちを嘲けり笑う外部からのプレッシャーに屈しない環境下に自分たちを置くことが出来るのである。

仲間たちに実際に会うことに対してあまり気を使わなかった古いタイプのオタクとは違い、コスプレイヤーたちは自分たちの興味を共有することを、仲間同士で集まる理由にしている。そしてコスプレに関する集会が世界中で開催され、参加者が急増しているのだ。エネルギーに溢れる仲間たちとの集会の間、コスプレイヤーたちは、お気に入りの映画の真似をしたり、ふざけて戦いあったり、パラパラを踊ったり、漫画を一緒に描いたり、コスチュームを作るための知識を交換しあったりするのである。それらの集まりは、ピーピーと音がなるプラスチックのアイテムを身にまとったニキビだらけの王女様と痩せこけたスーパーヒーローがたむろす継ぎ合わせの世界のようだ。そして仲間と会っている大半の時間は、興奮で飛び跳ねながら熱狂的に情報交換をするのである。どのコスチュームが格好いいとか、どのコスプレの集会がどれだけ素晴らしかったとか、どのアニメのどのエピソードが一番良かったかなどを感嘆の声を上げながら語り合うのである。

コミュニケーションは、音の呪文とドレスコードに秘められたジェスチャーにまで落とし込まれる。オタクがそれを愛しているというよりは、むしろ彼らの強迫観念的な行動であり、熱狂的愛情の超現実的な戦略によって常識や論理的秩序を覆そうとする試みなのである。彼らの加熱的な情熱と消費は、全ての加熱的ではないものに向かっている。現実世界に生きている人々は、それを処理し、理解するための適切な術を知らないのだ。それは驚異的に未来を垣間見る事であり、オタクが集会場所という自分たちのテリトリーを離れ、現実的社会に入り込んだとき、その脅威の度合いは更に増すのである。もし90年代にオタクがこの暗号化された風景の中に避難して来る術を知っていたら、今日のオタクは自分たちのハリー・ポッター的な物の見方を世界というキャンバスに押し付けていただろう。それは現実を効果的に変革するためのプロセスなのだ。コスプレのコスチュームは過去の革命に使用されたユニフォームを回想させないかもしれないが、それでもなお、戦闘服であることに変わりはないのだ。

今日の東京では、コスプレで溢れているストリートがあり、そこではコスチュームにドレスアップしていない者が第三者として傍観者化してしまう。そこでは一体誰がオタクなのだろう?生きた彫刻ともいえるコスプレイヤーたちは、自分たちで自身を創りだしたのだ。彼らはそれをするために、ピグマリオンも神も必要なかった。彼らは、ミュンヒハウゼン男爵が現実を否定し、自分が輝き中心的な存在となる第2の現実を創り出すことによって沼地から自分自身を助けたように、自分たちが社会で注目されない状況から脱出したのである。物事の事象が自分を無視できなくなるまで、その物事を無視する。そして今、批判的な一般大衆の人々がコスプレを理解するようになるまで、コスプレを続けることに意義があるのだ。現実を謎に変え、その運命をコントロールすることによって、そこに生きる人々は架空の人々に変わるのだ。もしオタクたちが自分たちの生きる世界を信じることを止めたら、その世界は消え、そこに生きるオタクたちも消えていってしまうだろう。
 

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Creators

『Resurrection(復活、という名前のアートブック。以下英字表記)』を作ろうと思ったのは、2006年の春にフィリピンに旅行をした時のことである。祖母の墓があったマニラ南公共墓地の中へ足を踏み入れた時、不思議な光景が目に入ってきた。大きな霊廟と霊廟のあいだに、棺桶を積み上げてその場しのぎ家を造り住んでいる家族がいたのだ。

text by Jon Santos


この墓所では、命あるものの世界と、永遠に眠る死の世界とが交差しているのだ。それは「再生」が行われているのである。ある意味、一般的なフィリピン社会を凝縮したようなミクロコスモだと言えないこともない。ガーリックの匂いと舞い飛ぶ鶏、そしてバスケットボールのコートと、芝生の上に散らかされた玩具たち...。墓場で遊ぶ子供たちでさえも、この死んだ街に息づく、しっかりと生きているコミュニティの一部であるのだ。

マニラ南公共墓地は正確にひかれた碁盤の目構造を持っており、マンハッタンのようにアベニューとストリートで考えることが出来る。それは僕が産まれたデトロイトの郊外を思い出させるものであり、山と積まれた棺桶が高層ビルのミニチュアのように感じられ、墓たちも家のように感じられたのであった。墓所の石畳の道を辿った先には名のない小道があり、それは墓場へと続いていた。祖母の墓を案内してもらうために、そこにいた9歳のジェイソンという少年と知り合った。彼は墓地で生まれ、墓地で育ったという。そこからそれほど離れていないところの差掛け小屋では、とても奇妙な立ち方で料理する女性が目に留まった。そう、これら全てが僕の心を大きく動かしたのである。ここでは、クリエイティヴィティと生活とは、死の上になりたっているのだ。静寂の中で行われる「聖なる復活」ではなく、本当に「死」んだものはひとつもなく、「死」と呼ばれるものから、さらに命は続いているのである。少なくとも、マニラ南公共墓地ではそうであった。

僕の仕事であるグラフィックデザインでは、流行のライフサイクルや、音楽や文化のムーブメントを見続ける。最初のカルチャーに関わった経験は13歳の時にやったブレイクダンスで、それから少ししてスケートボードもやるようになった。デトロイト郊外の高校生だった僕は、インダストリアルやニューウェーヴの音楽シーンにどっぷりハマった。1994年にはDJをやり始め、サンフランシスコでパーティをプロモートするようになった。そのとき僕は、二つの大きな音楽シーンの終焉を体験した。デトロイト・テクノの第二の波と、サンフランシスコを中心に産まれたラップトップ・グリッチのコミュニティである。だけど、シーンが終焉するということは、いったいどんな意味があるのだろうか?

[caption id="attachment_878" align="alignnone" width="379" caption="From Ressurection"]From Ressurection[/caption]

数多くの音楽ムーブメントが死んでゆく様はまるで伝説のように語られ、そこに関わっていた僕は、そういったムーブメントの「復活」を考えているうちに、一冊の本を作るアイデアが形になっていった。明確に定義されてない、無限の可能性をもった初期言語としてのムーブメントが誕生していくという、稀少なタイミングに居合わせることができた。まだ固まっていないムーブメントは、自由で開かれていて、固まってパターンが産まれる時には、それを言い表すための「言語体系」は準備されている。そこから産まれたクリエイティヴな産物は、本来のコンテキストから抜け出し、広告やマーケティングの材料へ用いられ、大量消費を促進させるものとなり、それがいずれ「死」を迎えると、ブーイングの対象へ変わる。しかし、ここでの「死」とは、メディアが飽和した世界においての「生と死」、「流行と廃れたもの」という中でのみ可能な概念である。しかしサブカルチャーの印を持って産まれてきたもの達は「死後」を生きることができ、融合や突然変異を繰り返し、もはや同じ意味や形を持たなくても、命を持ち続けていく。

[caption id="attachment_879" align="alignnone" width="450" caption="From Ressurection"]From Ressurection[/caption]

ヴィジュアルアートやデザインにおいて、過去の作品を用いることで今のクリエイションに光を当てるやり方は、当然のこととして行われるようになってきている。それを盗作と呼ぶ人もいれば、借用や人質と呼ぶ人もいるかもしれない。音楽の世界においては、サンプリングなど普遍的に行われる行為となっている。中古レコード屋やフリーマーケットで出てくるレコードを鋭い耳で買い集めて、自分だけのオトを構築する。現代のインターネット・エイジにおいては、MP3をダウンロードするキッズたちが彼らの正当な末裔だと言っていいだろう。音楽に、新しい命を注ぎ込むという意味において。

jon4

1989年には人生を変えてしまうような変革の瞬間があったのだ。少なくとも、デ・ラ・ソウルがホール&オーツの曲をサンプリングしてクラシックス『Say No Go』が産み出されたということに気が付いたキッズ達の中では。こういった死後の生を反映しているのが「再生」であり、マニラ南公共墓地で見つけた遊び心を、沢山のアーティストやデザイナー達と共に分ち合って産まれたのが『Resurrection』なのである。それは最初に思っていたよりもずっと素晴らしいものとなり、この本に参加してくれた全ての人たちに、その寛大さ、勤勉さ、そして信頼について、心より感謝したい。

[caption id="attachment_881" align="alignnone" width="300" caption="From Ressurection"]From Ressurection[/caption] [caption id="attachment_882" align="alignnone" width="300" caption="From Ressurection"]From Ressurection[/caption]

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Creators

様々なメディアを使う大規模なインスタレーションで有名なスイス人アーティストChristoph Büchelが、イーストロンドンのギャラリーHauser & Wirthで開催したショーは、想像を遥かに越えるスペクタキュラーな体験型インスタレーション。昨年11月から開催され、残念なことにショー自体は今年3月で終了したが、ロンドンアートシーンの度肝を抜いた歴史的イベントを少しでも味わってほしい。彼の創るパニックルーム『Simply Botiful』へようこそ。 

Photo Mike Bruce  /  Text Kris Latocha, Naoko Higashi /  Courtesy Hauser & Wirth


バベルの塔としてのアート
「このエキシビションは、密閉空間を恐れる方には適していません」と書かれたフォームが、『Simply Botiful』の会場入り口でわたされる...。
古い倉庫の入り口の上に「HOTEL」のネオンサインが光っている。アートエキシビションに向かっている感じが全くしない。わたされたフォームにサインをし、コートやバックを入り口に預ける。まるで本当にホテルにチェックインしているようだ。中に入ると狭い廊下にいくつものマットレスと置き去りにされた鞄が所狭しと並んでいる。洗い立てのベットシーツとタオルの匂いで包まれた空気。怪しげな部屋には個人の持ち物が散乱している。セックス・トレードが行われているようだ。私たちは、強制的に侵入者になっていた。誰かのプライベートをこっそり覗き見しているよう。そのような状況に少し不快感を覚える。次のドアを開けると、全く違う部屋。何冊もの歴史の本や不思議な道具があり、考古学者が住人のようだ。


[caption id="attachment_890" align="alignnone" width="300" caption="Photo by Mike Bruce"]Photo by Mike Bruce[/caption]

 廊下をさらに先に進むと、突然巨大な倉庫が私たちを待ち受けていた。廃棄された電気機器、冷蔵庫のパーツ、解体されたテレビ、どこから来たのか、どういった機能を果たすのか分からない部品が山積みされている。住居として使われている貨物用コンテナの中に入ってみた。食べ残しが置かれたままで、テレビのスイッチも入ったままだった。住人がすぐにでも戻ってくるのか、それとも、彼らが急に外に出なければいけなかったのか...。一時的なセットアップを見ると住人たちはここにはずっといないと知っているかのようだ。このスペースに足を踏み込めば踏み込む程、不快感がより強まっていく。制圧的な密封された部屋は、閉所恐怖症パニックやパラノイアを誘発する。

隠れた部屋がいくつかある。ワードローブの中を潜ると、ショーケースに入った燃え焦げたバイクが現れる。祈りの部屋の裏にあるスペースには、椅子が壁に面して並べられ、その下には宗教的文書、その後ろの壁にはポルノ雑誌の切り抜きが飾られていた。また、倒れた冷蔵庫の中にあるはしごを下ると、発掘現場へと続く。土の塊からマンモスの牙が突き出していた。ホテル内にあった考古学者の部屋を思い出したが、ここでの経験が更に複雑なものになっただけだった。

Büchelのエキシビションは、インスタレーションとの経験によって綴られていくシナリオを見る者にいくつも提供する。ここには、見る者が個々に解読する語られていないストーリーがある。私たちは、不協和音の歴史、不安、不快にさらされるが、魅了される。そこには、まだ発見されていない秘密があるから。 


[caption id="attachment_888" align="alignnone" width="168" caption="Photo by Mike Bruce"]Photo by Mike Bruce[/caption]



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Works

国立新美術館のロゴやSMAP、ユニクロNY店のディレクションから明治学院大学との仕事まで、ジャンルを選ばず日本のクリエイティヴシーンに常に新しい風を送り続けているアートディレクター佐藤可士和。そんな彼が、KENZO perfumsのクリエイティヴディレクターであるパトリック・グエージとコラボレーションして、東京の闇夜をモチーフに全く新しいメンズフレグランスを誕生させた。賑やかに明滅するネオンの街と、無言で通り過ぎる人並みと喧噪。夜の東京の光り輝く情景を見て、佐藤可士和はいったい何を感じたのだろうか。

text by Daisuke Nishimura   Photo by Lorenzo Barassi

パトリック・グエージという秀逸なクリエイティヴディレクターと、佐藤可士和という才能溢れるアートディレクターとのコラボレーションで今回のTOKYO BY KENZO は産み出されました。どういうプロセスでインスピレーションが形になったのですか?

ボトルの形は以前からあるものを使うという方針だったから、その形に定着したイメージと今回作るイメージがダブらないように注意しました。むしろあれをキャンバスだと考え自由にクリエイトする方がいいかなと思いました。パトリックから予めコンセプトの提案がありましたので、それをどうやってビジュアルに落とし込むかが重要でしたね。僕は東京でやっているクリエイターだから、まさしく「TOKYO BY KENZO」というキャッチの通りですよね。だから、僕なりにパトリックのイメージに忠実にやろうと思いました。

[caption id="attachment_952" align="alignnone" width="465" caption="photo by Lorenzo Barassi"]photo by Lorenzo Barassi[/caption]

ボトルの色を黒に選ばれたのは?

パトリックのコンセプトの中に「光」というものがありました。それを表現する為に、必然的に「夜」つまり「黒」を選びました。
 

パトリック氏のコンセプトにもありますが、都市の中の緑というものについてはどう考えますか?

あらためて東京って以外に緑が多いですよね。僕は東京生まれの東京育ちだったので、それに全然気がつかなかったんです。以前大阪に転勤した時に、東京って緑が一杯あったんだなって実感しました。こうやってインタビューしている帝国ホテルの周りにだって、緑は一杯ある。東京は自然と共存出来ている場所ですね。


お生まれはどちらですか?

 石神井公園です。
 

石神井公園ですか。この前通ったんですけど、都会とローカルが共存してますよね。

 そうです。石神井公園は東京ローカルです(笑)。超ローカル。
 

 いつまで住んでいましたか?

大学は多摩美術大学だったから八王子に下宿していたこともあれば実家との間を行き来していたこともありましたね。それから博報堂に就職した後はすぐに大阪に転勤になりました。最初の三年半ぐらいは大阪に住んでたんですけど、また戻ってきた後は一年半ぐらいは石神井に住んでいました。それこそ、ものすごい緑が一杯ある場所ですよ。


若い頃に影響を受けた存在はいましたか?

ミュージシャンだったら、セックス・ピストルズかな。あとは、美術を勉強し始めてからは、ウォーホルとかピカソとか、ミケランジェロとか。


大物が好きなんですか。

大物というか、時代の流れを作った人ですね。作風云々ではなくて、流れを作ったかどうか。ある流れがあってそれを洗練させていく人たちじゃなくて、荒削りでも良いから時代の価値を変えたような人たち。例えばピストルズって完成度とは関係なく音楽の流れを変えたし、ピカソやミケランジェロはもちろん完成度も凄いんだけどそれだけじゃない。ミケランジェロの彫刻って、当時の彫刻を一気にルーブル美術館とかで見れば、ミケランジェロの作品だって知らなくてもすぐに気がつくでしょ。あ、ミケランジェロだ!って。ピカソにしても、多くの作家が一生かけて印象派などある考え方を追求していくのに対して、年おきぐらいのペースで次々と新しい流れを生み出していく。結局そういうものが王道になっていくんだと思うんですけど、そのもとを作った人たちには影響を受けましたね。


佐藤さんが最初に「僕も道をつくっているんだ」って強く感じた瞬間とはいつ頃でしょうか?

5年目ぐらいの頃のステップワゴンですね。僕が最初にやった仕事は、大阪でのLOFTの仕事。梅田に初めてLOFTが出来て、その立ち上げから関わったんです。入社一年目で、アートディレクターとして仕事をやらせてもらえるのは、異例のスピードでしたね。それから広告の賞を受賞するなど、今思うとよくまかせてくれたなってものばかりをどんどんやっていきましたね。でも本当の意味での広告のディレクションってすごい難しいことだから、できるわけもなくて。当たったり外れたりを繰り返してたけど、それがなんで当たったのか分かっていなかった。自分では前回やったものと今回やったものとで手を抜いているわけではなく、クオリティに差がないはずなのに、評価されるものとされないものとが別れてくる。それがさっぱり分からなかった。


今はどうなんですか?

今はもちろん、分かってないとやれないですから。10年ぐらい前ぐらい前にステップワゴンをやった時、「あ、分かった」って気がついたんです。自転車が乗れるようになった瞬間の様なものでしたね。それまでは乗れるといっても、転んじゃったりもしたんだけど、完全に理解出来てきました。


そのコツをひとつ教えて下さい。

それまでは僕は「僕の作品」を作っていたんですよ。当たり前のことだったんだけど、ステップワゴンからは「僕の作品じゃないんだ、ホンダの作品だよな」って気付きました。自分で作っていく作業だから頭では分かっていても体には染み込んでいなくって、入れ込めば入れ込むほど自分の作品と思えてしまう。でも適当にやったり自分の作品だって思えないと人の心は動かせないんだけどね、そこをクールにコントロール出来なくて。ステップワゴンの時は、すごく冷静に僕のじゃなくてホンダの作品だけど、でも自分の仕事だと思ってものすごく熱を入れてやれたってかんじかな。初めて周りが冷静に見れたというか。それが、ちゃんと自転車に乗れた瞬間でしたね。車もミニバンの中のナンバーワンになったりして、自分が考えたことがずばりヒットしたんですよ。後はその精度をどうあげていくか。例えばイチローだって打率三割強だけど、それをもっと10割に近くなるような努力をすればいいんだなって思いました。三振は絶対ありえない。
 

今回のKENZOの様な、クライアントがファッション関係の場合は何かが違うのでしょうか?

一緒です。そこが僕の特殊なところなのかもしれませんね。幼稚園でも、SMAPでも、KENZOでも、ユニクロでも一緒なんですよ。今は病院全体のブランディングとかもやってます。ミュージシャンでも香水でも病院だろうが、僕は全て並列に考えています。それが良いんだと思いますよ。


学校の場合、フィードバックはどうやって返ってくるんですか?

学校はダイレクトですよ。受験者数がハッキリ増える。僕が明治学院大学の仕事をはじめてから、びっくりするぐらい増えました。例えばウェブサイトをきちんと構築すると、私立大学ウェブサイトユーザービリティランキングで、ランク外だったのがいきなり4位になっちゃった(笑)。今幼稚園プロジェクトも3年ぐらいかけて完成したんですが、来年度の園児を募集し始めたらたった2日で定員締め切りになっちゃった。もの凄い効果がありますよね。


ダイレクトに効果が出るのだとしたら、使い方次第で好ましくない効果を出してしまうということもありえますよね?

そこはクリエイターがモラルを持っているかどうかですね。僕は大学にしても幼稚園にしても、それを変えようと思ってやっているわけじゃない。ブランディングという仕事はいい所を延ばすということで、最悪なのは、もともとその人らしくないことを押し付けて、舞い上がっちゃうパターン。それが外れたことをやっている広告やキャペーンはうまくいかないですよ。でもそういうものは多いですよね。冷静に見て「こんなことしなくてもいいのにな」って思うことがありますね。ある瞬間に効果が出てればそれでも良いってクライアントが思ってるんなら良いけど、僕はアートディレクターとはお医者さんみたいな仕事だと思っているから。ものすごく強い劇薬を使えば治るけど、その分体に強いダメージを与えることになる。僕は、そういうのはあまり良いとは思っていない。


今はクリエイティブディレクターの立場で仕事をされることが多いですが、一緒に仕事をされて面白い人はいましたか?

色々いますよ。パトリック・グエージや中村勇吾さん、片山さんとか。サッカーのチームに例えると、僕は監督兼キャプテンだと思う。優秀なクリエイターという存在は、僕からパンっとパスを出すとバシッと入れちゃいますから(笑)。


メディアの可能性みたいなものは?

もちろん興味はあるけど、ウェブ以降、新しいメディアなんてそんなに出てきてないじゃない。インターネットが何十年かぶりに現れた新しいメディアだったと思うよ。あとは携帯サイトぐらいかな。リアルなもので言うと大体もう出尽くしていると思います。バーチャルでも出尽くしちゃってるし。

人間のカラダの最初に出来る器官というのがオルファクトリ−バルブ(嗅覚)なのだそうですが、もしかしたら最も優れたメディアの可能性は嗅覚にあるのかもしれませんね?

そういうことはあるかもしれないけど、何かメディアになるためには技術的な革新とかが必要ですよね。だから、メディアの場合にはそういった技術上の問題が大きいですね。


最後に、今後の方向性を教えてください。

僕がやっていることははっきりしていて、デザインしかやっていない。そしてこの先もずっとそうだと思います。プロダクトからグラフィックから空間から、ジャンルの抵抗感みたいなものはほとんどない。今回のKENZOの仕事で初めてフランスの企業と仕事をしたわけですし、自分でも常に新しいものを見てみたいと思っていますから。


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Works

香りはメッセージを語る。KENZO Parfumsのクリエイティヴ・ディレクターであるパトリック・グエージによると、彼の創る香水は五感と結びついているという。そんな彼のクリエイション、美意識、空想とは?

text Someone's Garden / Interview Lola Chalou / Photo Masafumi Matsuda / RetouchDaisuke Nishimura


まず最初にあなたのクリエイティヴィティの源は何ですか?

Patrick Guedj (PG)クリエイションに関して2つのポイントがあるんだ。1つ目は自由に考えたり、新しい感動を経験したり、新しい文化について学ぶこと。2つ目はチームのメンバーとアイディアを交換して議論する事。それと僕は本当に創りたいものを創るために、他の人がしている事とか、マーケットの事は考えないようにしてるんだ。

美しさとは何でしょうか?

PG美しさはとても私的で深いものだと思う。その美しさのせいで数秒間息ができなかったり、しゃべれなかったりするんだよ。


あなたにとって香水とは?

PGとても私的で、すごく良い香りをしていないといけないものだね。望ましい香りを創るのは本当に大変で時間がかかるんだ。そして香水はオリジナルである必要があると思う。


『KENZO AMOUR』はどうやって生まれたんですか?

PG僕はいつもその香水のコンセプトフィルム について考えるところから始めるんだ。そこから香水の持つメッセージについての絵コンテを描いて、香りを実際に創る人たちに僕の考えを伝えるんだ。『KENZO AMOUR』のコンセプトは旅行と愛のテーマをミックスしたものだけど、愛というテーマはKENZO Parfumsにとって実は新しい試みだった。以前は愛というよりは、むしろ孤独についてだったからね。


[caption id="attachment_937" align="alignnone" width="279" caption="Work by Patrick Guedj"]Work by Patrick Guedj[/caption]


あなたの作品は「五感」を大切にしていると思います。それぞれの感覚で、こだわりはありますか?

PG僕の作品は「五感」に結びついているけど、特別にこだわりはないよ。KENZOは感覚的なブランドだから、香りや音の感覚はいつも考えている。作業中に聞く音楽は、インスピレーションとして特に重要だよ。


現在の活動について教えて下さい。

PG新しい香水に取り組んでいて、メンズの香水も製作中。プレゼンテーションは今年の5月、発売は9月になる予定だよ。

[caption id="attachment_938" align="alignnone" width="300" caption="Work by Patrick Guedj"]Work by Patrick Guedj[/caption]


今ハマっている事は?

PG映画館で映画を観ることが大好きなんだ。最後に観た映画は、ノルウェー映画の『NORWAY OF LIFE』といって、すごく良かった。僕はたいてい批判的なんだけどね。


仕事をしていない時は何をしていますか?

PG KENZO以外ではフォトグラファーとライターとしても活動してる。旅行もすごく好きだよ。最後にした個人的な旅行は去年の夏で、チベットに行ったんだ。それと全く何もしないのも好きかな。その時間を使ってKENZOの為の新しいアイディアを練ったりするんだ。


[caption id="attachment_936" align="alignnone" width="300" caption="Work by Patrick Guedj"]Work by Patrick Guedj[/caption]


願い事がひとつだけ叶うとしたら?

PG自分で映画を撮りたい。


あなたにとっての「エデンの園」とは?

PG僕にとって「エデンの園」は贅沢で、幸せ一杯の世界。感覚のアイディアや、架空で詩的な世界とも結びついている。だけど、架空過ぎる世界である必要はないんだ。だって全てが完璧だったら、危険かも知れないから。


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